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ノーベル賞の授賞式が取り行われましたね。
今思うと、今年は何だか、ストックホルムと縁があったのかもしれません。
10月、ノーベル化学賞を受賞した根岸英一さんを、インディアナポリス郊外にあるご自宅でインタビューしたのですが、その時、授賞式のあるストックホルムは寒いでしょうね~という話になり、奥様のすみれさんも「友人に着物を見立ててもらっているんですが、着物だと寒いでしょうね」と心配されていました。
そんな取材をした後、11月に、ある取材でストックホルムに行くことになり、先日出張してきたわけですが、取材した方から市庁舎に招待されて、ノーベル賞のパーティー会場とダンス会場も見学することができました。
やはり、今年はノーベル賞&ストックホルムと縁がある年だったのかも~、と勝手に考えてしまったワタクシです。

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Me & 根岸教授(撮影はすみれ夫人)

取材時、根岸教授宅には、ずうずうしくも、5~6時間近く居座ってしまったわけですが、根掘り葉掘り、いろいろな話を伺いました。記事に反映されなかった話も含めて、ブログで書けたらな~と思います。
って、そういえば、ダニエル・ピンク氏インタビューのパート3がまだだったんでした~。
でも、ノーベル賞授賞式があったことなので、今日は、根岸教授の話ということで......。
以下は、ほとんどテープ起こし状態の生録なので、長いです。
話言葉なので、てにをは、おかしいかもしれないですが、ご勘弁を(笑)。
ブルーの文字部分は、すみれ夫人の発言になります。
会話にちゃちゃを入れてくる感じで、ユーモアたっぷりのすみれ夫人でした。

(根岸教授のお話)
家内はどちらかというと文系。女子美で服飾を専攻していました。

(と話し始めた教授に、すみれさん「服飾学科だったのに、あなたにはいつも同じような冴えない格好させていて、申し訳ありません」と言って笑う)

家内の場合は理科系の思考性は薄い方だと思います。専門レベルでのやりとりはゼロに近いですね。家庭内でのサポートは、50年結婚していますから、みなやってもらっおり、金婚式もしました。家内の兄健次は私と同級生ですが、健次と幸子夫人と、私どもと、家内の従姉妹直枝さん夫妻はみな同じ歳なんですね。健次さんは一歳上で。この3軒で仲良くしていて、夏にみなでハワイに行った時、記念に色紙を作りました。家族親戚関係で、どこを見回しても、理工系は私一人なんです。その中では完全に孤立した存在です。競争も喧嘩もなく気軽なものです。

私は満州生まれですが、終戦の2~3年前に京城に移りましてね、そこで終戦を迎えて引き上げてきました。引き上げて来たのが小5の時。東京に親父の家があったので、いったんそこに落ち着いたんですが、30何坪の家に16人住む状態だったので、それを解消するために、神奈川県の大和市、林間のあたりに移りました。それが小6の時です。大和中学校に上がりましたが、そこで、音楽の先生をしていたのが家内のお父さんだったんです。それで、家内のお兄さんが私と同級で、彼は中学に入ると、転校して私立の湘南学園に入りました。私は公立の湘南高校に行きました。彼女の家は中学のキャンパスの中にあったんです。

(「だから、主人には現地採用だと言われています(笑)。そこにいたからもらってやったんだと(笑)」とすみれさん声を挟む

最初にお互いを見たのは小6の時ですね。彼女のファミリーの中で、一番最初に接触したのは彼女のお父さんです。私が彼の生徒だったから。私は小さい頃から音楽が好きで成績がよかったんです。彼女の父は人物的に立派な人だったので尊敬していました。でも、お父さんに紹介されたとかいうわけではなく、家に行くといつもそこにいたのが彼女でした。また、湘南学園に入った彼女の兄が私と同じ湘南高校に進んだ関係で同じクラスになったりしました。彼とは深い友人関係はなかったんですが、家が近いので、高校の2年、3年、特に受験をして、お互いに東大に合格したのでその頃から一緒に行動するようになりました。大学に入ってからは、健次さんとは中学生を相手に一緒に英語会をしたり、彼女のお父さんを指導者とする合唱サークルにも参加していたため、彼女の家で一緒に歌ったりしていました。そういう意味で近い存在でした。
彼女とつきあうようになったのは、彼女は私より3学年下ですから、私が大学に入ってからですね。彼女は高校生でしたが。大学の最初の2年間は健次と一緒に英語会やコーラスで一緒に行動していることが多かった。英語会で一緒にキャンプにいったりとか。
つきあうようになったのは、自然発生的というか、小さな家に行けばそこに彼女がいつもいたわけですからね。見ないわけには行きませんでした(笑)。非常にもの静かな女性で、コーラスにも参加しなかったし、控えめでしたね。

(「それがいまじゃねとすみれさん

それが今では怒鳴られ役になってます(笑)。家内はよく狭い家で、コーラスに参加せずに我慢してたものだなと思います。唐紙の向こうにいたんじゃないかな。お茶くらいだしてくれたのかな。

(「お茶はだしてたわよとすみれ夫人

(「駒場祭に兄と一緒にいったんですね。その時、門のところでひょこっと主人に会ったんですよ。で、主人が「僕が連れてくよ」というのでついていくと、実験室みたいなところに連れて行かれました」とすみれ夫人

まあ、その辺からということにしておきましょう。極めて自然発生的につきあい始めた感じですね。

若い時は自分は歌は歌える人間だと思っていました。東大に受からなかったら、次の年は芸大を受けようかなと思っていました。好きだから、まだ若かったし、そういうことをやってみようかという気持ちはありました。

健次さんのところにしげしげと行くようになったのは東大の合格通知をもらってからでしょうね。歌が得意だったので、お父さんにも認められていましたしね。
最初に小六の時、家内を見た時からいいなと思っていました。けっこう可愛いでしょ(笑)? おかっぱ頭だったかな。でも、特に、それ以上のことはいきなり考えた訳ではないですね。

(「三つ編みもしてましたよとすみれ夫人

あ、そう、そういう時もあったな(笑)。
付き合い始めてからは、3年になって、本郷の下宿にいたわけです。それで、週末に、林間に帰っていたので、主に週末に会っていたんです。それがある意味で良かったんでしょうね。しょっちゅうではなく、1週間に1回会うだけだったからね。下宿していたので、本郷に戻る時は、家内は食べ物を作って私に持たせてくれたりしていました。

(「最初の頃、上野動物園に連れて行ってくれたわよね。記念写真撮ったら、キリンのお尻が入っちゃってね。キリンが動きますから、上がりを見ると、キリンのお尻が入っていたことがありました(笑)」と夫人

本郷から上野動物園は近いですからね。大学3年になってから付き合いの密度は高くなりましたね。就職して、広島の岩国に行くことになったので、離れることになり、その時、婚約を発表したんです

(「広島にいる時、主人が赤痢になって入院したので、お見舞いに行ったこともありました。これはやっと退院が許された時に撮影した写真です。忘年会で食べた生ガキがあたってしまったんです。東京から見舞いにかけつけました。今なら飛行機がありますが、当時は汽車で一泊して行きました。主人がリーダーを務めていた英語会のキャンプで中津川渓谷にも行きました。カレーとかのご飯を作りにね。ご飯炊きです。彼が大学で、私がまだ高校生だったんですがね」とすみれ夫人

卒業の日に婚約を発表しました。確かに、赤門のそばの「ルノー」という喫茶店で、です。
これは、健次と一緒に家内が岩国に遊びに来た時の写真です。帝人の寮は宮島のそばだったので、健次も含めてみんなで一緒に行きました。

(「これが彼の寮の部屋です。そこに兄と一緒に遊びにいったんです。新婚旅行は熱海に行きました。お金がなかったから帝人の会社の施設に泊まったんです」とすみれ夫人

でもけっこうデラックスなんですよ(笑)。元どなたかのお屋敷だったので、けっこう立派でした。
家内のどこに惚れたかというと、まず可愛いでしょ(笑)。それとやはり、おとなしくてですね、それと、やはり、お父さんも知っているし、お母さんもすばらしい方だ。これだけ円満な家庭はなかった。お父さんは、ある意味、音楽の草分け的な、芸大ピアノ科を出ているんです。私が中学の時、地方の中学の音楽の先生をしていた。中世のオルガン音楽も研究していた。お母さんは人柄がよく諍いも考えられない人。子供が5人。男3人女二人。全員健康で、一人も欠けていなかった。ああいう時代にもかかわらずね。私のところは二人欠けてましたからね、数人いれば一人は欠けていた時代ですからね。そして長男の健次が私と同級生。彼が今も私には一番近い存在の一人です。2番目が長女の家内です。家庭内に諍いがない円満な家庭だったんです。家内とだったらいい家庭が築けると思いました。
うちは両親は離婚していませんが、円満に仲良かったかというと一見そうだとも言えなかったのです。戦前戦中戦後に生まれ育ちましたが、父は家におらず、新潟などに出稼ぎに行って働いたりしていました。いろいろ試みて失敗しては転々としていました。最終的に落ち着いたのは大学を卒業した後です。円満な家庭とは言えなかった。親は苦労しながらも私のことを見つめてくれたというのはあります。
幸い、生まれてこのかた、勉強しろといわれたことは一度もなかった。勉強をあまりしなかったんです。小六~中三までは野原でうさぎをかったり、鶏をかったりして遊んでいました。勉強らしい勉強を家でした記憶がないんですね。
土地が広く、菜園が好きで、菜園を楽しみに本郷から週末帰っていました。勉強が嫌いだったんでしょうね。しなかったです。高一の時もしっかりした目標なかった。高一の時400人中100番目くらいだったんです。その時、これだけ勉強していないのに、自分の上に100人いて、下に300人いると思った時、ちょっと勉強してみようかなと思った。年に30~50人、神奈川で東大に進学する学校だったので、その学校で100番目なら、勉強したら行けるかもしれないと思い、勉強してみようかなという気になった。でも土日はアルバイトしてたんですよ。味噌醤油、すみ、石炭、まきのご用聞きに自転車に乗っていろいろなお宅を回っていたんです。注文を取りにいって、各宅に配達をしていた。当時は父も苦労していて、いろいろやってうまくいかない時代だった。だから、少しでも家の負担を軽くしようとしたんです。バイトしたお金はそっくり母に渡していました。でも、高二になり、“プロフェッショナル受験勉強家”(そう呼ぶようになっていた)になってからは、100番が9番になり、1番になり、それからはずっと1、1、1と来ましたね。
婚約式の2年前くらいから、結婚する予感はありました。その前も、子供の時から長かったですからね。

(「おすもうして、投げられたのを覚えていますよ」(笑)とすみれ夫人

そういう経過があるので、逆にいうと、結婚しないだろうということは考えていなかったと思います。でも、結婚するのはいつでとかそういうのは、切羽詰まらないと決められなかったところがあります。私が卒業した時は就職が決まっていたので、岩国行くとなると、距離があるので、だから、その段階で、婚約を発表した方がいいと思いましたし、彼女の兄からも「どうなんですか~」と言われて、けじめというか節目をつけなくてはと思った。岩国にいって、半年もたたないうちに留学生としてアメリカに行くという目標がでてきた。自分の化学研究の基礎を作り直す必要性を感じたんですね。日本の大学院に行くお金はなかったので、親からもらうことは可能性ゼロだった。あの頃、おおやしんぞうという帝人の社長がいて、彼は若者を鼓舞するのが得意だった。若者は外国語を数カ国後マスターしろと言っていた。フルブライトの留学奨学金に受かったものを会社がサポートするということで、私をサポートしてくれた。帝人には感謝しています。学校に入る前から帝人の奨学金(東大の時)をもらっていました。
で、アメリカに行くことになった時に、結婚しようということになった。そのチョイスしか考えていなかったですしね。アメリカに船で渡米する1ヶ月前に式を挙げたんです。

プロポーズしたのは新宿御苑です。そこで結婚の話をしたら、彼女の特徴的表現なんですが「私なんかはだめです」と辞退することを言われたんです(笑)。「それは本気か」と聞いたら、まあ、最後は本気ではないということだったんですがね。そういうためらうような回答が帰って来たことは覚えていますね。それを聞いた時は、本気でこういうこと言ってんの~、まさか本気じゃないだろうと思いました。ためらったのか謙ったのか。そういうことはありましたね。
新宿は私たちの都内での拠点でした。よく出かけていました。高野フルーツパーラーとか中村屋とか、ああいうところはよく二人で行きました。追分団子とか、小谷楽器店とか、新宿では必ず行った店です。
結婚後は、もろもろお互いにいろいろな発見はありましたが、そこは省略します。大事にしているのはこの3カップルは同級生なんですが、その3カップルがよく50年間もどこも離婚沙汰もなく、主立った妙なこともなくここまで来たものだと、それを3家族でハワイで祝ったんです。その間の苦労話というのは、子供が生まれ育てるとかアメリカ生活は家内にきいて下さい。
わたしは子供ができた時はプロの研究者として研究1本だったのですが、それをとことん家内は支えてくれてあり難くおもっています。
最初の半年は離ればなれでした。もう少し簡単に、家内が来れるかと思ったら来れなかった。保証人が必要だったんです。年配のアメリカ人も保証人になるのは躊躇した。責任が伴いますからね。結局、ハワイで8週間英語の研修をうけた時に、3、4回しか会っていない方が保証人になってくれました。

(「新宿御苑のプロポーズの時、2月か何かで寒くてね。確かに、断りましたね。それは覚えています。彼はそのあと「プロポーズして断られたの初めてだから困った」っていったんですが、私は「はじめてじゃなきゃ困るわよ」っていったんです(笑)。でも、岩国に行かなくてはならなくなってたし。そしたら、主人が兄に話したらしいんです。で、私は兄から「どうして断ったの?」と言われた。でも、だからといって、「この前のは取り消しますとも、あらためてお願いします」とも主人には言わなかったと思うんですよ。
“二人三脚”というのは覚えています。たぶんプロポーズの言葉は“二人三脚をしたい”というようなことだったと思います。それで“バランスよく行かないと、ころんじゃうわよね”と言ったのは覚えています。歩調を合せないと、片方は足をひっぱられてしまいますからね。二人三脚はシンプルだけど難しいことですよね」とすみれ夫人


家内は料理はうまいですよ。長女でしょ。ああいう時代ですしね。お母さんの手伝いを進んでやっていたので。寿司も握れるし、コロッケとかトンカツとかカレーライスでも。一通り何でも作れますね。でも年になると手先が多少は鈍るかもしれないですけどね。料理もサイエンスが入ってますよね。私はほどんとしないですけどね。そこは完全に家内におんぶしています。
私も便所掃除でも何でもします。庭周りの灌木類、大木は別ですが、それ以外は自分で植えました。そういうのが好きですから。家も私が設計したんですよ。
リビングの天井は6~7メートルあります。普通は暗い部分にも陽があたるような設計にしているんです。できるだけ明るい部屋にしてるんです。設計図を大工にみせたら、驚かれていました。建築学科の先生にも気に入られ、建築の学生がうちの見学に来ていました。普通の家は、中がどうなっているか予測できると思いますが、うちは予測できないような造りなっています。また、私は音楽が好きなので、階段のところにやや広いスペースを作ったんです。合唱のステージになるようなスペースです。

今度は、すみれ夫人のお話を~。
その前に、ダニエル・ピンク、パート3、なのかな???

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